擬人譚について


「異類の姿」として次のようなものがあります。

1 自然のまま・・・古代からみられる
2 頭部が異類、胴体部が人間…中世後期以降、多くみられる
3 頭部が人間、胴体部が異類…地獄絵図に多く見られる
4 異類が人間に変身する…古代からみられる。人獣交渉の基本
5 頭部や背部に異類を示すものがある…中世後期以降みられる
6 異類の胴体に人間の手足や顔がつく…器物の擬人化に多い
7 異類と人間とが融合した姿…近世以降多くみられる
8 一部分が異類…近世以降多くみられる

 上記は人獣交渉の物語、異類世界の物語を分けずに示したものです。物語文学において、前者は異類譚・変身譚として描かれ、後者は人間不在(もしくは人間は傍観者)の擬人譚として描かれます。


 異類譚は便宜上漠然とした術語ですね(わかってますw)。主として人間と異類とが接触した場合、退治するというモティーフがみられます(頼光四天王の土蜘蛛退治や俵藤太の百足退治など)。これは一般に異類退治譚と呼ばれます。意思をもつ異類としては、少数例ですが、忠義な犬の物語(『犬寺縁起絵巻』)などもありますから、それらも一括して捉えてきます。なお、脇役としてならば、人間に使役される家畜や野生の動物も描かれます。上記の分類からすれば、いずれも1です。
 変身譚は異類が人間やその他、原型以外の異類に変わるものをいいます。だから上記の分類からすれば、1→3、1→4、1→8の展開がみられます。1→3は来世で畜生道に堕ちたものに多いでしょうが、一方で「件(くだん)」のような瑞獣もいます。1→4は完全な人間の状態に変わるもの。1→8は完全に人間に変わらず、身体の一部(尻尾や耳など)に原型が残るものを指します。
 それらに対して、本題の擬人譚はもとより異類が人間のごとく生きている世界が前提にあります。異類、たとえば1の場合では、雀が雀の姿で人語を用い、恋愛をし、戦をし、出家する世界もあります。また2の場合では、雀が人間のように装束をまとい、家屋に居住し、食事をする、そんな世界もあります。
 このような見地からしますと、サントリー本及び天理本『鼠の草子』は鼠が人間に変身して結婚しようとする物語ですから、変身譚です。しかし、ケンブリッジ本『鼠の草子』は変身をせずに人間と問答する物語ですから、人獣交渉の物語ではありますが、変身譚とはいえません。ここに検討の余地が残りますが、とりあえず寓話性に富むものとして、広義の擬人譚として位置付けておきたいと思います。『藤袋の草子』の猿や『弥兵衛鼠』の鼠もまた神や神の使者としての性格をもつものとして、現実の人間界において信仰的な存在感をもつものですが、その言動は人間とかわらないので、広義の擬人譚とみなしておきたいと思います。

 神格化との違いについて説明を加えておきましょう。
 擬人化“personification”とは〈人間以外のものを、人間に擬えて扱うこと〉です。対象となるものは多種多様であり、どのような人間として表現するかもまた多種多様です。
 一方、神格化は、〈ある対象を神とみなすこと〉といっていいでしょうか。山川草木など自然物や風雨や雷といった自然現象を神とみなす自然崇拝は擬人化といえなくもありません。またギリシャ神話ではタナトスやヒュプノスがそれぞれ死や睡眠を神格化したものです。これもまた擬人化ということができるでしょう。

 人間が自然界のもの、海や山、川、森、樹木、動物などを見て、神を感じるのは古代から見られるものです。それを神格化して明確に神として認識していきます。神々には、人間の姿をとる神、動植物の姿をとる神、異形の神などがあります。
 これらは神格化された自然物、自然現象、概念などは擬人化の起源として位置付けられないでしょうか。
 認識した神を絵画や造形物で具現化していく。これは擬人化と違うものでしょうか。狭義では違うものと捉えてよいものでしょう。つまり擬人化はあくまで架空のもの、表現方法の一種に過ぎません。ところが神は信仰的背景をもって育まれてきた存在です。その存在は信仰的には事実です。上述した付喪神もまた古い器物には魂が宿るという信仰のもと生成された神々でした。
 付喪神は「神」といわれる存在ではあるが、現代人の分類意識からすれば「妖怪」と捉えられるものでしょう。その妖怪もまた信じられるところから生み出された存在であることから、神とともに擬人化と一線を画する存在として捉えておくのが相応しいでしょう。
 神や妖怪はわれわれの住む現実世界で共存し得る存在ですが、擬人化キャラは表現方法の一種であるという点で本質的に二次元の住人です。
 では神や妖怪は絵画や物語など二次元においては擬人化キャラと差異があるのでしょうか。それはないと思われます。冒頭の表に示したような諸型で神や精霊もまた表現されるのです。それゆえ、広義には描かれるところの神や妖怪もまた擬人化されたものと捉えることは可能であると考えます。
 とはいえ、そうであっても、擬人化と神格化の歴史的な隔たりは大きいですね。
 絵画上で擬人化キャラが人間の姿を獲得するには、記紀神話からおおよそ1000年かかっているのです。それに対して、神格化した動物を除けば、神は当初から人間の姿といっていいでしょう

 また、変身譚との区別について。
 物語中でbefore/afterがあるのが変身譚。 あらかじめ人間に擬えたキャラクターが物語中で動きまわるのが擬人譚。
 異類婚姻譚は変身能力のある異類が物語中でその能力を発揮することで、異類(before)→人間(after)の展開が見られます。 異類が外見的に人間の真似をしているという意味では擬人化といえなくもないのはわかります。 でもそこまで擬人化の概念を拡大すると、驢馬にされた人間を擬驢馬化、豆に化けた鬼を擬豆化とか言うのと同列になります。 それは変身・変化した/されたということでいいのではないでしょうか。
 要するに、物語中でキャラクター自身が能動的に姿を人間に変えることと、物語の前提条件としてあらかじめ人間になぞらえていることとは別種とみるべきだと思うのです。

参考
http://irui.zoku-sei.com/Entry/19/