梟(フクロウ)

フクロウの鳴き声は今日「ホーホー」と表現されますね。
狂言「梟山伏」では「ホオン」。
これはフクロウが人に憑依して、それを除こうとした修験者もまた取り憑かれるというもので、設定自体、非常に珍しいと思います。
フクロウにそんな能力があるなんて、僕は聞いたことないんですが…。

それはそうと、フクロウの鳴き声はしわがれた声でしょうか。
『源氏物語』夕顔の巻にその鳴き声を「からごゑ」と表現しています。
『鳥の歌合』にも
  ものすごく今からごゑに うそ姫のいねし梢のもり山のかげ
という歌があります。
この「からごゑ」は『広辞苑』では「枯声・嗄声」の漢字をあてています。
つまり枯れた声であり、またしゃがれた声であるというわけです。
しかし、あのホーホーという鳴き声を枯れたとかしゃがれたとかいうのはどうなんだろうと思ってます。
しゃがれ声じゃないですよね、あれ。

昔からフクロウの声は不気味なものと思われていたようで、『源氏』では夜更けて風が荒々しくふきすさび、松風も寒々しい状況で聞こえてくる声です。
上記の『鳥の歌合』もまた恐ろしげな声としてあらわされています。判詞に「からごゑをもつて恐ろしくしなさんとの巧み」と評されてます。
西行もまた
  山深み けぢかき鳥の音はせで もの恐ろしくふくろふの声(山家集)
という歌を詠んでます。
声はすれども姿は見えず、ということで、山奥を歩いていると、どこからともなくフクロウの声が聞こえてきて、恐ろしく思っているのでしょう。

僕の印象からすると、枯れた声、しゃがれた声の鳥とはカラスのようなもので、フクロウの声はそれとは異質だと思うのですが…。
あの声は枯れたというよりも、むしろ虚ろな声というべきではないかと。
 墓場で聞こえてくるカラスのしゃがれた声、
 夜道で聞こえてくるフクロウの虚ろな声、
声の質は違いますが、同様に気味の悪さをもたらすものでしょう。
その意味で『源氏物語』にいう「からごゑ」はうつろな声というのがピッタリではないかと思います。
角川の古語大辞典などはこの一節を引いて枯れた声などと説明しますが、岩波の旧大系の頭注にみられるように「梟は、中味の無いようなうつろな声で鳴く。「空声」は「しわがれた声」ではない。」とするのが納得いきます。
『大辞林』などは枯れた声を主説として採用し、うつろな声を「一説」として掲げるのみですが、フクロウの声に限っていえば、それは逆ではないかと思います。
ていうか、「枯声」と「空声」とを同一項目で処理する発想はもう捨たほうがいいのではないかと思い至りました。

『物類称呼』には、その声を地方によってどのような言葉に聴きなしているか、いくつか記されています。
『挙白集』を挙げて
 ・のりすけおけ
 ・夜明けなば巣つくらう
 ・五郎七ほうこう
 ・この月とつくわう

このうち、「のりすけおけ」の説明に「をのれが毛衣の料にやと有り」とあります。
近代の事例に「のりつけ干せ」(『富山の民俗』)などがあるので、これは「のりずけおけ」なのではないかと思いました。
本来「糊/付けおけ」ですが、慣用句となることで二語意識がなくなり、連濁音が生じ、「糊づけおけ」、さらに四つ仮名のみだれから「糊ずけおけ」、ついで表記するにあたって濁点をつけずに「糊すけおけ」となったか?
(「犬/骨折って鷹の餌食」が「いぬぼね折って…」になるように)

それはそうと、「この月とつくわう」がわからないです…。
これは「薩摩国の人」のいうことだそうです。
名著『鳥名の由来辞典』(2005年)には江戸後期の『鳥名便覧』を挙げて「“ふくろふ”の薩摩における方言」とし、項目名は「このつきとっこう」とします。
一方、最近出た『日本古典博物事典 動物篇』では「この月とつくわう(取っ食おう?)」と解してます。現代の仮名遣いで「このつきとっくおう」とするところでしょう。
「取っ食おう」であってもkuoの音はオの長音に転訛して「とっこう」になると思いますが、いずれにしろ、語源はまだ分からないようです。
ただこの聴きなしには「糊つけ干せ」とか「五郎七奉公」とかとは違う、恐ろしい声だという意識が働いていたのではないかと思います。
その意味で「取っ食おう」という解釈はなるほどと思いました。
というのも薩摩の妖怪物語『大石兵六物語』にも「このつきとつくわう」というフクロウの妖怪が出てくるからです。歴博蔵絵巻を見ると、それはフクロウ科のトラフズクをモデルにしていることがわかります。
この妖怪は、夜、どこからとなく聞こえるフクロウのうつろな声を実体化した妖怪ではないかと思います。
かつてトラツグミの声からヌエをイメージしたごとく、これもまた声から生まれた妖怪といえないかなあと思うわけです。