×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

トップページに戻る
この画面を閉じる

犬も歩けば棒に当たることがあるかも

歩いた先にあった石碑とか墓碑とか、なにか文学に関係しそうな、あるいはあまり関係なさそうな、ともかくそういうものの写真です。


 
熊本城の瓦。
慶長4年(1599)8月吉日の日付が見えます。

 






《京・黒谷》
さすが黒谷。著名な人々の墓がたくさんあります。
中でも春日局の父斎藤利三や向井去来の墓がとくに知られているところでしょうか。
3時間くらい見てまわるだけでは全然踏破できませんでした(×_×)

海北友松の墓

 江戸初期の絵師海北友松(かいほう・ゆうしょう)の墓です。
 真如堂にあります。
 友松は慶長20年(1615)没。
 春日局の父斎藤利三(明智光秀家臣)とも交友関係があったからでしょうか。
 すぐそばに利三の墓があります。




















山崎闇斎の墳墓道標
  文殊塔東北
  
二十間許ニ  山崎闇斎先生墳墓アリ


 ちなみに文殊塔のそばにも「闇斎先生瑩域」という道標が立っています。
























三宅尚斎の墓
 崎門派(山崎闇斎の学派)の中でも傑出した学者三宅尚斎の墓。
 黒谷をはじめとする京都の墓地については『京都名墓探訪』洛東編1、2(ナカニシヤ出版)という力作があるのですが、わたしの場合、悉皆調査をしに来ているわけでないので、ブラブラ歩いてたまたま前に来た墓が知っている人のだった、という方が運命みたいのを感じておもしろいですね。
 闇斎の高弟としては佐藤直方や浅見絅斎も著名ですが、彼らの著作には版本ではなく写本として流布しているものが多くあります。わたしの手許にも直方の『儒仏論筆記』や絅斎の『小学講義』など2、3の写本がありますが、尚斎の講義録はまだ持っていません。墓前に来た縁で入手できればいいなあ…。


 尚斎三宅先生之墓










中山三柳の墓
 黒谷の文殊塔のそばにあります。
 三柳は江戸前期京都の医師で、茶人藤村庸軒や俳人去来の父玄升とも交流がありました。
 とくに藤村家とのつながりは深く、庸軒の嫡子正員の次男は三柳の養子となり、延柳と名乗りました。墓は三柳のそばにあります。
 著作もいくつか残していますが、『飛鳥川』(1648年序)、『醍醐随筆』(1660年)などが一般に知られているところです。


 華陽軒三柳之墓

 【裏面】

 貞享甲子六月二十日

















《大和》
筒井順慶の墓

 大和郡山市にあります。
 戦国武将として名高い順慶の墓。
 もともと円証寺に埋葬されていたそうですが、のちにここ改葬されました。
 天正12年(1584)没。























《江戸~東京》
川上音二郎の碑

オッペケペー節で知られる芸人です。
文久4年(1864)誕生、明治44年(1911)他界。
台東区の谷中霊園という大きな霊園にあります。

 川上音二郎君之像

















牧野富太郎の墓


高名な植物学者なので、御存じの方は多いことでしょう。
台東区の谷中霊園にあります。
生1862年、没1957年。


     結網学人
  牧 野 富 太 郎
  TOMITARO MAKINO DtSc
 
 APRIL.26.1862 - JAN.18.1957

        墓

【側面】
  
   昭和三十二年一月十八日歿
浄華院殿富嶽頴秀大居士

         
行年九十四歳



《下総》

今日庵元夢が建てた芭蕉の句碑


     甍見やりつ
 観音の
   華の雲

        
はせを翁



  今日庵元夢
   
門下春日庵南道
    
  大 竹白水
          建之
 寛政五
癸丑十月十二日





 千葉県成田市の滑河観音境内にあります(地名としては成田市「滑川」)。この寺は坂東三十三ヶ所の観音霊場の一つで、朱塗の荘厳な本堂といい、格調高い四脚門といい、この辺りでは抜きんでています。
 句碑は、この地域で活躍して多くの門弟のいた葛飾派の元夢とその門弟南道・白水により、芭蕉翁百回忌を記念して建てられました。元夢は小林一茶の俳友でもあります。南道・白水は成田の人。これにあわせて元夢は句集『夢の花』を刊行し、一茶の句も入っています。
 なお、本堂には慶応4年(1868)奉納の句額が掛けられています。木啄(きつつき)庵によるもので、成田の月杵(西馬門)などの名が見えますが、残念ながら褪色が進んで読めなくなりつつあります。

古田月船の墓
  茨城県北相馬郡利根町の応順寺にあります。
  月船は小林一茶と交流のあった地元の俳人です。天保8年(1837)1月20日没。
  一茶の『七番日記』(岩波文庫)などにもその名が出てきます。


           五水庵
              月船
 花守が
    余所の花見る
      月夜かな







  *濁点は原文にありません。





赤松宗旦の墓
 茨城県北相馬郡利根町の来見寺にあります。月船の墓のある応順寺から徒歩で1時間くらいかかります。
 宗旦は『利根川図志』を作った江戸後期の文人であり、医者でした。この本は今日でも岩波文庫などで容易に読むことができる名著です。
 後ろは低地&ブロック塀のため、背伸びしたくらいでは見えませんw

【裏面】

 文久二年壬戌四月廿一日没
 同三年癸亥四月建焉












曲流舎可川の句碑

       可川
 はつしもや草
    の青みも
      ねにもどる


  *濁点は原文にありません。

 【裏面】

  可川居士海保氏稱九郎左衛門世香取郡金江津
 邨之右族也常好俳諧委家事於嗣子榮輔娯花鳥
 風月従遊者多矣於是曲流舎之號鳴於世元治元
 甲子年十月八日歾齢七十有二門人相議刻詠句
 於碑以傳不朽之名云 慶應元乙丑七月建




 茨城県稲敷(いなしき)河内(かわち)町の共同墓地の入り口にあります。ここは金江津という集落で、利根川沿いにあり、昔は水運で栄えていました。
 曲流舎こと、海保可川は、幕末、この土地で米問屋を営むかたわら、俳諧結社を立ち上げて活躍した人です。その流れは今日にも至り、先ごろ『曲流』という合同句集が出されました(平成18年)。
 近代文学で俳句といえば、正岡子規以降の作風が語られるわけですが、それ以前のものを否定的に捉えることで、その近代文学としての革新性が説明されます。文学史を俯瞰したとき、それはそれでかまわないわけなのですが、歩いた先にこういう句碑が建っていて、それが、江戸時代、地元の文化的活動の担い手のものであって、その流れが明治・大正・昭和、そして平成と続いていることを思うと、文化史的には重たいなあという気がします。

《越後~新潟》

外山且正(とやまかつまさ)の建てた石灯籠
 
新潟県三条市の金子神社にあります。全景写真、向かって右側の石灯籠です。
この人は御歌所寄人で、歌人として活躍しました。歌集も数冊出しています。
子息暦郎氏が『越後三条南郷談』(大正15年刊)という当地の伝説や民俗・史跡を紹介した本を出しています。
それが面白いので本書片手に散策に行ったところ、たまたま見つけたものです。

  大正二年九月建之
   
寄附人
     外山且正
     小出正治


《肥後》

小西行長の墓碑

 小西攝津守行長之墓


 【側面・左】

 昭和三十八年秋再建
       
 白 井 ア キ

 【側面・右】

 西岳院殿行長即得大居士
     慶長三年十月一日












 加藤清正が建てたことで知られる熊本市の本妙寺。
 境内は広く、墓もたくさんあります。
 寺内の東光院に小西行長の墓はあります。
 しかし行長は関ヶ原の合戦で敗れて処刑されました。
 それにもともとキリシタンなわけですから寺院にあるのは妙な話です。
 
 よくよくみると、昭和38年に再建されたものでした。
 これを建てたのは白井家の方。
 白井家は小西行長の家臣でした。
 
加藤忠広の墓碑
 

 加藤清正の三男で、熊本藩を継いだ第2代藩主です。
 しかし寛永9年(1632)、改易となり、出羽丸岡(山形県)で 晩年を過ごしました。
 忠広はかの地で没しましたが、昭和11年(1936)本妙寺 の日等上人が分霊を本寺に迎えました。
 ここには忠広のほかに子息や生母などの墓碑もあり、あ わせて六喜廟と称されます。